秋は夕暮れ

刀伊の襲来と平安貴族


平安貴族なんかエッチばかりして軟弱な男ばかりというイメージがあるけど当時の女流文学ばかりが注目されるから女から見た男なんてスケベ野郎でしかないのかかしら、、、、、、

実際は左大臣道長を頂点にして中々、有能な男も多かったのよん、アンチ道長で野党の領袖だった大納言実資も道長の異母兄弟で道綱が後生だから死ぬまえに三日だけでも内大臣にして欲しいと頼むけど実資は日記で漢字の読書きもできないのが大臣なんぞになれないと言切ってるし、道長も道綱を大臣にしなかった。

道長のライバルと言えば、、、内大臣伊周が失脚したけど伊周の弟の中納言隆家というのが骨のある男で格下げになるけど自分で希望して太宰府長官になり赴任する。
 
 「刀伊」とは高麗語で野蛮人って意味らしいけど沿海洲あたりにいた女真族が大挙、船で南下して高麗の慶尚道沿岸や北九州を襲撃したんだけど蒙古襲来みたいな規模には遠く及ばないけど鎌倉幕府のような軍事政権でもないし当時の日本は防人軍団を廃止して以来、正規の国防軍なかった、被害も壱岐の守が殺害されたり、対馬も一時占領され死者行方不明者なら蒙古襲来時に匹敵するかと思うほど激しかった、人さらいが目的だからね。

 それが歴史上ではなんか印象がないんだよね、墨子曰く「神妙に事をなせば功を誤まる」なんて具合に、、、、、、
 急報を受けた道長が隆家が太宰府長官ならと動揺しなかった(平和ボケもあるけど・・)、その通り隆家は見事に九州の武士を編成してみずから率いて刀伊(女真族)を撃退している。中央貴族のぼんぼんとは思えん働きぶりからして当時の貴族もまんざらでもないと思う。

 あんまり神妙に終わったので中央政府は先例にないとしては道長の顔色を伺って論功行賞をしぶった(隆家が道長と確執のあった伊周の弟だから)が先例主義の権化のような実資に逆に叱られて褒賞を出したそうである。

 当時の政治はまだ稚拙なものだけど前例主義なんて今の官僚だって似たようなところあるんじゃないの・・
 平安貴族もこの頃が最盛期で後は保元の乱に至るまでは落ちる一方だけどね、、、女流文学も「とわずがたり」までになればエロ文学だし、、


>武官って意外に多いですよ。それが必ずしも名誉職でなかったという感じかな。

今昔物語に清少納言の夫の橘則光が追い剥ぎを三人斬った話しがあるし。ぐれて官職につかなかった清少納言の兄貴はギャング団のボスになり清少納言と酒盛りをやっていてるところを源頼光一派に殴り込みをかけられて斬られたという逸話もある。

清少納言の兄貴も都でごろつきにならず官職について地方に赴任して土着すれば武士になったかも知れない(清原氏)。
 公家の財産相続は武士と違い、通常なら兄弟姉妹均等に相続するから相続税はないにしても有能な子孫がいないとじり貧で没落してしまう。
 
公家は天皇の臣下だから公家は公家を家来にできない、有力公卿の家司になる公家がいるが昇進斡旋してもらうためのバイトみたいなもの、しかし武士は公卿の家来になってしまう、そうなると親族兄弟まで家の子郎党にしてしまい強力な家臣団を持つ武士の方が武官としての能力が発揮しやすい。しかも平安朝末期は、正規軍がないから金脈より人脈。
 
もう関白頼通のころになると盗賊団が検非違使に追われた盗賊が行幸啓の列に乱入する事件があって儀衛の者が盗賊を取押さえると誉められると思ったところ頼通は顔をしかめて「近衛は儀容を崩すな、滝口の者に任せよ」と叱ったそうである、当然、今でも言えることだけど頼通の叱責は正しいが「滝口の者」は官職はあっても正規兵でなく私兵を持って任務を遂行するわけだから一見シビリアンコントロール下にあるようだけど実力部隊は私兵に過ぎない。
 
権謀術策は公家のお家芸だけど武士という便利な者がいるんだから、これで短期決戦で決着をつけようとした悪左府は、流れ矢で一命を落とすという下手をうつ保元の乱。
 
要するに軍事力を放棄して自由化してしまったんだよ、それでなんでもできる武士が実力を握る。
 政治形態上は幕府なんて変態だけどそれでよかったんじゃないかしらペリーが黒船艦隊で来たときに中国、朝鮮みたいに平安朝気分でのんびりしてなくてさ・・


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