源三位頼政



今は昔・・・
源平合戦で最終的に勝利者となった源頼朝ですけど、じつは義朝・頼朝と続く源氏より摂津源氏の源頼政の系譜の方が本家筋とか、この源頼政は保元・平治の乱で平清盛に味方して清盛の推薦で源氏で初めて従三位になったことから従三位頼政と呼ばれましたが、平家一族のあまりの横柄振りに憤慨し乱を起こして敗れ77歳の老い腹切って自決しました。

この従三位頼政の北の方が菖蒲前と呼ばれる美女で若い頃、鳥羽院の女官をしており当時は近衛帝の御代、帝は毎夜、妖怪「鵺」に祟られて苦しんでおり勅命により頼政が見事、鵺退治を果たし、鳥羽上皇から鵺退治の褒美に何が欲しいか尋ねられると菖蒲前を所望したことから上皇は戯れに12人の美人女官に厚化粧をさせてその中から菖蒲前を当てたらと選ばせた。

頼政はわからず窮余の策で和歌を詠む、、、
 五月雨に 沢辺の真菰 水こえて
    いづれあやめと 引きぞ煩ふ


上皇は感心して菖蒲前を頼政に賜ったことが由来となって 「いずれ菖蒲あやめ杜若かきつばた」の語源になったそうでござります。菖蒲御前は頼政の自害した時まで夫婦として添遂げており安芸の国に落延びたとか。 菖蒲池の花を眺めつつ昔話など想い出しましたの。


埋木の花咲く事もなかりしに・・


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 治承4(1180)年、源三位頼政に嫡子源仲綱が泣かんばかりに訴えた「これ以上の屈辱に耐え切れない、平宗盛を討つ」と・・

1、名馬「木の下」
 仲綱の所有する名馬「木の下」を平宗盛が執拗に所望する、頼政は、馬を惜しんで平家の機嫌を損ねてもつまらぬと仲綱を説得して馬を宗盛に渡すが仲綱が渋ったのが気に入らぬとその馬に「仲綱」と焼印を押し苛めているという。

2、源氏本家
 平治の乱で当初有利であった源義朝が敗れたのは摂津源氏の頭領である頼政が平清盛に味方したからである。義朝にしてみれば同族に裏切られたようなものだが頼政にしてみれば渡辺党を率いる頼光以来の本家であり、頼義、義家が東北、関東で蛮勇をふるい盛んにパフォーマンスをする義朝の系統を苦々しく思っていた。
 義朝が勝利すればどちらが本家なのかわからなくなる。

3、妖怪「ぬえ」退治
 近衛天皇の御代、頼政は、内裏守護の滝口の武士として勤務していたが宮殿に出没する妖怪「ぬえ」退治を命ぜられ見事しとめた「ぬえ」は頭が猿、胴は狸、尻尾が蛇、足は虎の化物であったという。
 また、歌道にも優れており宮廷武者としての高い評価のあった頼政と為義、義朝親子は、同じ源氏でもかなり雰囲気が違っていた。

4、宇治川に散る
 頼政の謀反など清盛には信じられなかったろう。従順で堅実な性格を好ましく思い従三位に推薦してやったし事勿れ主義者の頼政ならむしろ恩義に感じてると思っていただろう、、、、ところがやはり頼政も源氏武者兵力的に無理を承知で壮絶な戦いを挑み激戦の末、鎧兜に身を包みながら77歳の老い腹をかっさばき自決した。

 
 今どき社会のクズどもが「切れた」と称して乱心するようだけど地道に堅実に昇進を重ね源氏武者として最高の三位にまでなりながら地位も財産も投げ、命も捨てた、源頼政をそんな「切れる」なんて感覚で見てもらいたくな−い。本物の男なんだから・・

 ・・身のなるはてぞかなしかりける(三位入道)・・・・・Shonagon