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なにやら外が騒がしい若公家どもが寄り集まって「一世を風靡した才女も今じゃこんな荒れ果てた屋敷が棲家とは夫も子もない女の哀れな末路でごじゃるのう・・」こういう輩を相手に啖呵をきりたくなる私の性分が哀しい。
縁に出ると塀も門も壊れたままなので往来がよく見える「青二才どもよくお聞き、燕王は人材を求めるに駿馬の骨を買ったという。どうじゃわらわを買う程の器量人はおらぬのか!」どぉーと笑い声が上がり「誰が物好きで鬼婆を買うんじゃ」と囃したてる声の後ろで「まろが買うぞ!」と大音声がした。

若公家どもが驚き振り向くと従者を従えた騎乗の白髪の恰幅の良い老公家が眼光鋭く睨みつけている。「前左馬頭、藤原保昌じゃ。」と一喝すると若公家どもは畏れて逃げ去った。先ごろ検非違使に捕縛された大盗、袴垂れの供述で今まで一番恐ろしかったのはこの保昌を襲い張倒されて「相手を見誤ると怪我をするぞ」と一喝されたときだったというのが評判になっていたからである。

「やや・・これは珍しいや、保昌殿」保昌はしばらくは食いつなげるほどの食糧を持参し、従者に命じて酒肴の用意をさせ一献傾けながら昔話をしようという。

保昌は私の命の恩人で、、、、、
官位にも着かずゴロツキどもの首領をしていた私の兄、致信が中納言藤原隆家卿に頼まれて内大臣伊周卿の愛人である故為光大納言の姫君のところへ夜這う花山法王を脅すために数人で取り囲み弓を射てしまった。当時、伊周卿のライバルであった右大臣道長卿は配下の武者源頼光率いる四天王に命じて致信一派を襲撃させた。

なんとその時、私は兄の致信たちと酒盛りの真っ最中「すわーっ殴り込みだ!」瞬時のうちに兄は斬られ源頼光と四天王の坂田の金時、渡辺の綱、卜部の季武、村岡の貞光に囲まれ白刃を眼前に突きつけられた「なにを致すか無礼な武者ども!わらわは、おなごじゃ殺したりすれば七代の世まで祟ってやる」・・「構わぬ斬れ・・」とそのとき「待たらっしゃい!」と現れたのが保昌で、いくら無官のゴロツキと言えども国司を歴任した元輔が子息の致信じゃ公家として見聞役としてついて行けと道長卿に命じられたそうで「この方はさる宮家の女房衆じゃ、まろが預かる」と言って逃がしてもらったことがあった。

はははは、、保昌は屈託なく笑い「相変わらずじゃ、、、、、、」

・・血に染まる 秋は夕暮れ 立つ鳥に 日が入りてのち 逝く人偲ぶ・・


干魚をぐぃっとかじりながら前左馬頭藤原保昌は「・・ところで、則光殿は息災か、」と尋ねるので「さぁ・・陸奥の守に任官した際に夫婦別れしたっきりで便りもありませぬが・・」そりゃまたどうしてと突っ込むので私もなにやら酔いがまわり有体に話したもう月のもの尽きたしなにも照れる年でもないし。

夫とは言っても父が肥後の守から帰任してすぐに兄の致信が親友の橘則光という者が「お前と夫婦になりたいそうじゃがどうじゃ」と厭らしいような上目使いで私を見て言うので「いやよ!そもそも夫婦仲になるまでは恋文を交わしてからが慣わしよ、そんないきなり夫婦だなんて下郎土民じゃあるまいし。ふん!」

「けっ!なにを気取ってやがるんじゃぁ!お前みたいなよ、赤毛で天然パーマその上に逆三角形の狐面でいまどき、どこの物好きが恋文なんざあ・・よこすんじゃ!てめぇの器量のほどをわきまえろ!」その赤毛が総立ちなりそうなくらい怒り心頭に達して「まああ!非道ぃぃ・・お父様」と側で聞いていた父に訴えた。歌人の名も高く日頃ゴロツキの兄とケンカばかりしているからきっと兄の無礼を咎めてくれる。

ところが・・「おう、則光ならよい男じゃし、橘氏の本家総領であろう、よい婿取りじゃ致信でかしたぞ。」ぇぇええ!この藤原氏全盛の時代じゃ別姓の橘氏の総領なんていくら出世しても石を投げれば五位六位に当るってそれくらいなもんじゃん。

則光は小太りで蟹みたいな肩幅、顔は九州の果てに棲むという隼人族のような精悍な面構え、まったく私の好みじゃない。でも父や兄におまえは不細工だがあんなよい男に思われて果報者だと責められ続けて渋々宮仕えしてもよいという条件で夫婦になったのよん。

それで順当に昇進した則光が六位の蔵人になり職場結婚のようになってしまい、みなに冷やかされると則光は「おい、蔵人頭の藤原行成様はじめ公卿方がおまえはすごいおなごじゃと誉めまくっておるど、どういうこっちゃ?」「まぁね、こなたのような無教養人にはわからんわねぇ」「なぁにを」という調子で夫婦仲も遠のいたある晩いきなり血まみれでやって来てビックリして聞くと「そこで盗賊に襲われて斬捨てたんじゃその返り血よ」そして血だらけのまま私を無理矢理押倒した「ぎゃぁああ・・やめてぇ!汚れる。」・・「なんだぁ、俺が殺されたかも知れぬのにおまえはそんな冷たいことしか言わぬ女じゃ」それ以来ケンカ別れみたいになったけど、、

「おぉ!ありゃ則光の仕業やったか」保昌は納得したように膝をたたいた当時、三人の盗賊がそれぞれ二つに斬捨てられてこれほどの腕は源頼光一味か藤原保昌しかおらぬじゃろうと検非違使がまろのところに事情聴取に来たことがあったわい。ふむふむ似合わぬ夫婦じゃと思っておったが、、なるほどのう。

・・血に染まる 秋は夕暮れ 月のもの 猛きおのこの 思ひ知らずや・・

この頃はまだ、武勇は武士どもの専売特許じゃなく藤原保昌や橘則光のような腕っ節の強い剛毅な公家衆がいたのよねん。


「保昌殿・・今更このあばら家に婆の昔話を聞きに訪れたわけでもありますまい・・」前左馬頭、藤原保昌は沈痛な面持ちで「うむぅ・・じつはのう頼みがある・・」と語りはじめる。
保昌は攝津の守を最後に退官して隠居していたがこのほど御堂関白藤原道長卿の邸へご機嫌伺いに上洛したがそこで攝津へ赴任する際に同行を拒んだので夫婦別れした妻の消息を聞いて、、

有名な歌人で艶聞も多い女であることからいつかしら仕送りもしなくなったが今はすっかり貧窮しており重い病で明日をも知れぬという。早速出向いたが荒れ果てた屋敷にまだ面識のある侍女もいてお互い懐かしがったが取次ぎを頼んでも本人がどうしても会わぬという。
「親しかった女友達だった、そなたからなんとか会えるよう計らってくれぬか」・・他ならぬ保昌の頼みとあらば、、

翌日、同じく仲良しだった大江匡衝の妻、赤染衛門を誘い、保昌の別れた妻を見舞ったところ、どうしても保昌とは会わぬと言うので二人で説得して簾越しならば、、「・・それなら会いましょう」とはらはら涙を流しながら本心を語ってくらた。

「わらわも保昌に是非にも会いたい・・世間ではわらわの男好きが原因で愛想を尽かされたことになってるけど本当はこの老いた身に飽きたに違いない。ならば今この病にやつれて更に老いた姿を見せとうない。」
ふ〜む、そんなものかと私は思ったなんて言っても私は則光はじめ片手の指の数に足りないくらいしか男は知らぬ。帰りに赤染衛門にそう言うと大笑いして「あたしゃ亭主一筋だし、あんたも艶聞じゃ売り物にならんわえ。」・・・「むっ」っとして睨みつけると「おおー恐!まるで山姥か鬼ん子のようじゃぞぇ」かー放っとけ赤毛の天然パーマは生まれつきじゃ!

しかし、次ぎの日の早朝、保昌の別れた妻は病のために帰らぬ人になってしまった、死に際に「今日は保昌殿が見舞いに来ます・・・・」といいおいて必ず自分の死に顔は見せてくれるなと言い残し息を引き取ったそうである。

・・・・・ということが最近ございましのよ、、中宮の宮様覚えておられますぅ、あの若い頃に親王方々とも浮名を流し鴨の祭りでは下民どもの目も憚らず牛車をガタガタと揺るがせながら交わり評判になった歌の名人
・・あれぇ、これはまたなんとしたことかはしたなきこと申しました。

などと私は亡き中宮様の御陵を拝みながら今日も独り言をいっておりまする。ほほほほほ・・・

・・沈みゆく 鳥辺乃の里の 日くれない いづれ消えゆく 秋は夕暮れ・・


> 秋は夕暮れ...和泉式部の この想いは、男に届いたのであろうか..

藤原保昌じゃが、、まろの存在は和泉式部から見て一番の想い人でもなかったようじゃのう。
ところで、御堂関白道長卿の元へ伺ったがいたく機嫌がお悪いようで「保昌!今度こそあの小憎らしい実資(さねすけ)に鉄槌を加えてやろうと思うが頼通めがかばいよるんじゃ。」

話しによると関白である道長は通常は直接閣議の席には出ないのでそこで議長である左大臣頼通(道長の長男)が三条帝が眼疾の療養でしばらく御公務を休まれて敦成親王(彰子出生)に代行してもらいその間、関白に摂政してもらおうと提案したところ、右大臣小野宮実資が「今上で御公務に支障はござらん」と真っ向から反対し、中納言藤原隆家が「人非人どもめ・・」とつぶやいたのを内大臣教通(道長二男)が聞き咎めて「暴言だ」「何も言っておらん」と押し問答になったと言う。

「実資は彰子の入内のおりも皇族、公卿揃って祝いの和歌を詠んでおるのに一人だけ前例になしと逆らいおった!先の大宰権帥として中納言隆家が刀伊の賊を鎮定したときも前例にないので恩賞を出さないと決まりかけたのを前例なきことは今からが前例になると主張して恩賞を賜ることになったんじゃ」と道長卿は憤慨して「あやつの処分は頼通が一策あるからと任せろと言っておるが保昌!あの堅物の頼通じゃ心もとないから様子を見てきてくれんか。」

確かに反道長派の領袖として小野宮実資や宿敵の一族藤原隆家が公卿として存在できるのも本人の能力もあるが関白としての道長卿の度量の大きさのおかげとも言える。

それで左大臣頼通卿を訪ねると「お!保昌よいところに来た、誰ぞ小野宮グループに知合いはおらぬか。」「清少納言なら多少の縁もござりますが・・」「おう!それじゃ!清原氏ならばっちしじゃわい。じつはしかじかこうじゃ」

……まったく男というのは食えない者ばかりですわん。あの和泉式部の葬儀は藤原保昌が取仕切ったんだけど、、今度は若い女を連れて来て右大臣小野宮実資卿のお屋敷に奉公させたいから頼む。と言う。

これはさすがに断ったよ。父の清原元輔の代から小野宮グループには世話になってるから当然、当世の天下といえば御堂関白藤原道長だけど政局での最大野党の領袖が小野宮実資その屋敷に奉公人を送り込みたいなんて関白道長の家司である保昌がいうんだから、きっとなんか陰謀があるに決まってる。

でもね、、しばらくして「母上、、お願いですから、、」と橘則長がやって来て保昌殿の頼み聞いてくれとどうやら国司へ昇格するのと引替えに保昌に口説かれたらし。仕方がないなぁ・・その若い女「三萩乃」を小野宮家に推薦したわ、清少納言の紹介なら間違いあるまいと雑仕女として仕えることになったんだけど嫌な予感がしたのよねん。

小野宮実資は謹厳実直で儀典礼式にも精通して関白道長の主宰する祭礼である九条流に対して小野宮流を確立したほどの人物であるが色好みという弱点があった。

実資の邸宅にある井戸で下女たちが水汲みをしている真っ白いふくろはぎが交差するセクシーな姿態がたまらない!実資は素足フェチであった。抜群の若い女がおるではないか「今日はあの女を呼んで参れ。」・・「おうおう!めんこぃのう名はなんと申す」「・・三萩乃・・」「ほう、よき名じゃ早うそこへ直れ、、」「いやでごじゃります」「なぬ!まろに逆らう気か!」「このスケベ爺!!」と叫ぶと同時に持っていた水桶を投げつけて三萩乃は一目散に逃出した。

後日、、閣議の席で頼通が実資に「ところで先日、三萩乃なる雑仕女がわが家の水桶を右府殿の屋敷に忘れて来たそうなので返してもらいたいのですが・・。」実資これには閉口赤面し、返答に窮した。当時、貴族が当家の下女を手篭めにするなどひんしゅくものであり、ましてや公卿ともあろう者が昼伽させようとして逃げられたとなれば物笑いの種である。以後、頼通はこの口うるさい老政治家実資をすっかり手なづけてしまった。

…山ぎわに たつ鳥の影 しみじみと 小さく見える 秋は夕暮れ…


あらら・・ここは清少納言のスレットだけど言わせてもらいますわん。あの人、、系列は違うけど先輩ぶって「貴方って作り話しがお上手ね、私は見たままのことしか書かないの。」と痩せぎすな顔でスズメの巣のような髪して言ったのよ。

言い返してやろうと思ったけどあんなでしゃばりで自分の知識をひけらかして得意になっているような下品な女と一緒にされたくないから日記に悪口書いとくわ。

ちなみに私は自分の書いた物語に出てくる紫の上と父親の藤原為時の官職から紫式部と呼ばれています。

源氏物語が世に出まわったのは私の夫、藤原宣孝が部屋に隠してあったのをこっそり持出してあちらこちらの浮気相手に見せてまわりそれを口説き落とす手段にしてたんです、とんでもない男!それに鴨神社の祭りに白地の纏いを着て背中にそそり立つ男根の錦絵!そんな姿で衆人注目されながら踊っている宣孝を見て真っ青「もう来ないで!」と罵ったりしたけど・・

宣孝がいつも持ってくる「いわし」を塩焼きにして食べるのが楽しみで夫婦別れできないのよ、あれぇこんな私も下品なんですぅ。

それが検非違使尉の源高村が捕り物で大盗・・小舟の一味を追いつめて小舟一味が三条帝の行幸啓の列に逃げ込み乱入する事件が起こったの。

直ちに儀衛の近衛が格闘の末、取り押さえてみんな近衛儀衛(相撲人)が誉められると思いきや随従していた左大臣藤原頼通卿は「近衛は儀容を崩すな!武者どもに任せよ。」と叱りつけた。

当然、検非違使右衛門権佐兼山城守だった藤原宣孝は検非違使の直属の上官であり、当地の行政長官を兼務してたわけだから太政官に呼びつけられて厳しく叱責された。

御堂関白道長様が左大臣頼通卿に「当家縁故の者だし紫式部の夫でもある堅いこと言わずに穏便に済ませてやれ。」と言ってくれたそうだけど頼通卿は頑として聞かず「儀容を維持してこそ形式美が保たれるそれが天下に威容を示すことになるんです、近衛は打ち払うだけでよいものをみっともなく武者どもと一緒になり捕り物なぞして、その原因は宣孝の監督不行き届きでしょう。」

「そう四角四面なこと言うなよ」「いえ、これは閣議にて右府殿と決定しおることでごじゃります。」「なんと!実資とつるみおって・・・」

そんなこんなで怒られて宣孝もしょげて私のところへ「めざし」しか持って来なくなったのよ。ああ・・いわしの塩焼きが食べたいのにぃ・・。

後に、、頼通は出羽であった後三年の役の合戦で功労のあった者に褒美を与えたいと申し出た源義家に「あれは私闘であるものを義家が煽ったものじゃ。」と却下してしまう。それはそれでもっともなんだけど源義家はやむなく私財を放出して協力してくれた配下の武者らに褒美を与えたんで攝津源氏が関東で武家の棟梁と仰がれて私兵化して行くのよねん、ご恩奉公って、、、、

・・・秋は夕暮れ 仰ぎみれば 茜色 身近を照らす 山の端の月・・・


>  女の様子を聞き及べば 文のひとつも書こうかと筆をとり、書き始めては ためらいが生まれて
>
>  筆をおく。
>
>  「無粋じゃ..」男は そうつぶやいた。

ほほほ・・・なにを無粋などと藤原行成殿らしくもない。そう言えば上東門院(彰子)に出仕している娘の小馬命婦(藤原棟世)が言ってましたわよ、最近気短になられた御堂関白道長様に左大臣頼通卿と行成殿のお二人がまるで下僕のように罵られていたって、それでも関白様の機嫌取りで白髪頭を抱えて立ち働いてるんですってね相変わらず。

>  少なくとも、のちに男が戯れに「寝おきの顔が可愛いと聞いたので見に来ましたよ」と

源経房殿なら先ごろ大宰権帥に任官して筑紫国へ赴任の挨拶にと私のところまで来ましたよ。それもえらく落胆した様子で「今回ばかりは左遷なんですよ、関白が病気したときの喜んだ五公卿の一人と噂されましてねぇ」経房殿は、なんと言っても関白の北の方、倫子の上の縁者なんだからすぐに戻ってこれますよって慰みを言っておきましたけど、、、、、

・・・・・秋は夕暮れ 雨うちふりて 草の庵 つれづれに たれかたずねん・・・・・


>一条天皇は、お許しにならず、お二人を太宰府に護送なされた。

鳥辺乃陵にて・・・・・・
中宮の宮様お聞き下さいまし、源経房殿が大宰府の任地で没してから今度は、あの御堂関白道長様が背中に大きな腫れ物ができて苦悶苦闘の末亡くなられたそうです、ちまたでは中関白(道隆)家の恨みが背中の腫れ物に祟ったという噂でしたが豪気な道長様らしく最後は生きる希みのある者のすることじゃと加持祈祷を止めさせて往生行儀に従って亡くなられたそうですよ。

それとなんとあの中関白家と御堂関白家をうまく渡り歩いて「権記」という日記を後世に残した蔵人頭だった能筆家の藤原行成殿が道長様と同日に亡くなられていたんですって、、、、、

そうそう行成殿が亡くなられる前に昔話などしようとなにやら含みありげな物言いをしておりましたが無粋なことを言う方ではありませんけど、ただ、、、内大臣伊周卿も中納言隆家卿も大宰府には流されてませんよねぇ・・

伊周卿は失意のあまり寿命を早められたけど隆家卿は許されて復帰後中央ではもう出世の望みはないと希望して大宰府帥(長官)を申し出られてんですよね、それも眼病を患っていて当時、大宰府に高名な唐人の目医者がいたからですよ。

しかも、赴任中に刀伊の変(女真族の来襲)があって地元の九州の武者どもを統率して見事、賊どもを撃退して大手柄でこの話しを引合いに出して右大臣小野宮実資卿が「良家のぼんぼんと言われておっても中央貴族がいかに優秀であるかということを地方に実証して見せました。しかるに道綱(道長の異母兄で陽炎日記筆者の息子)大納言殿では大臣になれません、なぜなら漢字の読書きもできないからでごじゃる。」

・・…と道長様に直談判された。(道綱は「死ぬ前に一日でよいから兄弟のよしみで大臣にしてもらいたい。」と願い出ていた。)さすがに道長様も縁故だけの無意味な昇進をさせることができなかったということもあったそうですよ。

そう言えば上東門院(彰子)の女房で紫式部っていうのが幅をきかせていましたよね、勝手に私にライバル意識を燃やして高慢ちきな女とか私の陰口言ってた、、あの方も亡くなってしまいました。

小野宮邸に呼びつけられて実資卿に”水桶け事件”でしっかり叱られてしまいましたわん。「清少納言は昔からギャングみたいな連中とばかりつき合っておる!兄者の清原致信が横死した現場でも一緒に酒盛りをしておったそうではないか!和泉式部や赤染衛門のような不良女とも親しいし、藤原保昌に至っては関白家の家司でその弟の袴垂れ保輔が盗賊になって保昌を襲ったのも、そもそも保昌が家財産を独り占めしたのが原因ではないか!!」・・これで小野宮グループから絶縁状態で位田の一部も取り上げられてしまいましたのよん。

最近は目もクラクラで歯もガタガタ、そろそろ私にもお迎えが来るころなんでしょうかね。それでもうれしいことが一つありましたのよ、下野守源政隆という若い受領がやって来て娘の教育にぜひとも枕草子の写しなどあれば譲っていただきたいと訪ねて来たんです。これで御堂関白家の全盛の前に中関白家や中宮定子様の栄光があったことを後世に伝えられますわ。

もちろん枕草子には楽しかった日々しか書いてません。あれがこの清少納言のすべてですもの・・希布にニ諾なし、侯贏一言を重んじ、人生意気に感ず、成否を誰が問わんや。
……清少納言は定子様にめぐり会えたことで意気に感じてこれまで生きてまいりました、、、、まもなくお側に参ります。

…秋は夕暮れ 紺に紅梅襲で 長き黒髪 うしろ姿にうっとり 微笑む笑顔はにっこり 唖ぁ・・雲の上、清少納言が笑ってる…


前下野守源政隆談
老政治家、右大臣小野宮実資卿が亡くなられて後、小野宮邸に伺候したところ、子息の権中納言資平卿が「政隆か!久しぶりに飲み明かそう」と誘われて、、、、、

まったくスケベ爺だったよな・・あの親父は関白頼通殿の息のかかった下女を手込めにしようとして水桶を投げつけられても懲りずにその次は自分の息子ほども歳の違う左大臣教通殿と遊び女の取り合いまでしてよ。

ははは、さすが老いても益々盛んでござった、実資卿は、先の御堂関白(道長)も一目おいておられたし、摂関家に対抗しうる唯一の朝臣でしたな。

それが、関白家も親父ともどもあの清和源氏の武者ばらに恥をかかされてたことがあってよ、先年、前上総の介平忠常が乱を起こしただろうあのとき甲斐守源頼信が追討使を願い出てたので閣議で決まりかけたときに大納言藤原斉信殿が「おかしゅうごじゃる、忠常は頼信が従者とも聞き及びまするむしろ叱責してもよいくらいじゃ」

そこで親父殿も「そう言えば頼信は摂関家の家来と思うておりましたが武家の分際で当家にも貢物いたすので反対に恐縮してしもうたこともあったわい。」というと左大臣教通殿が「なに!武者如きが滝口に詰めておればよいものを受領にしてやれば公家にでもなったつもりか!」と怒り頼信に「家人は他にもおる!」と叱りつけ右衛門尉平直方を追討使に任命したが、、見事に惨敗!

致し方なく頼信に追討使を命じて乱は鎮圧したが生意気にも忠常が降伏したので死を免じたいと要求しよったらしいわ!普通なら安房守等国司らを攻め殺した謀叛人じゃ当地で討ち取るのが習いであるのに死刑を廃止してるから護送されて来たら打ち首にもできないのを承知の上で
太政官の処断に不逞にも条件をつけよった。

今度は安倍一族とかいう俘囚の長が叛乱したとかで頼信の倅の頼義が陸奥守兼鎮守府将軍になったがまた武者どもを増長させるだけだともっぱらの噂よ。

ほ〜乱暴者と言われた兄の頼光の係累は都で地道に勤めてるようですが、弟の頼信の方が腹黒いようですな。

ところで、、こなた年頃の娘御がいたな・・

はい、一人は小一条院(後冷泉帝)へ出仕して、もう一人は幼い頃、与えおいた枕草子に入れ込み宮仕えに憧れて、どこぞへ出仕したいとせがまれていたところに先ごろ、関白頼通卿の寛子(四条宮)姫の女房にどうかとお声がかかり喜び勇んでおりますわ。

それよ、上東門院(彰子)や関白頼通殿と後朱雀帝の皇后禎子内親王がいよいよ険悪な雰囲気になって来たらしいぞ、どうやら後朱雀帝が譲位して後冷泉帝が即位されたが権大納言能信(頼通・教通の異母弟)らが後朱雀帝と謀り関白に無断で尊仁親王(後三条帝)を皇太弟に冊立して、怒った関白殿は東宮伝承の神器「壷きりの剣」を皇太弟に渡さぬらしい。

なぁーに案ずるに及ばぬよその家のことだが寛子姫が後冷泉帝の中宮になり皇子でも生めば摂関家は磐石だよ、そうなれば廃皇太弟にされるだろう。しかし、まろとしては反摂関家の能信一派に肩入れしたいところだがな、あ!今の一言はオフレコにしてくれよ。


もうお父様(前下野守源政隆)って心配性でさあ・・「お前は清少納言どのに似てきっと四条宮様に一生忠義を尽くすようになる・・」まさか定子皇后の悲劇を四条宮(皇后寛子)様と一緒にするなんて縁起でもないこというんだから。

皇后様は今をときめく関白頼通様の姫様だし、今上(後冷泉)とも琴瑟相和す仲、すぐに皇子様でも生まれればお父様の心配は杞憂ってことになるわ。

それよりも、今すごい勢いで美濃の君が部屋に駈込んで来て「ねえね!!下野、知ってる!」情報通でいつも騒がしい女房が「風俗令が却下されたそうよ」「やっぱしね」・・風俗令はゴマスリ別当と陰口される検非違使長官の源経仲が関白が贅沢を戒めるよう訓話したと聞いて先走り関白に誉められようと市中に条例で市女笠が贅沢だと禁止しようとしたのよね。

”関白頼通様は「そんな些細なもんを取締まれなどと言っておらん!女人が顔形も露わにしたら公家の子女は心細くて市中どころか功徳所にも参拝できぬようになるではないか、もっとまともな法令を上申してくる役人はおらんのか!」”

さすが関白は皇后様のお父上だけあると女房たちは大喜び。

ある日、皇后様の兄君の大納言師実卿が遊びに来られ下々の者の話をされ大笑い。師実卿が身振り手振りで「茨田重方という舎人がおりまして伏見稲荷の夜祭で誰彼構わず袖擦り合うも多少の縁と女子衆に声をかけておると中にお屋敷で奥方が待っておられるんでしょうと艶かしく答える女がいて、こりゃ脈があると思い重方がそれなら着物のほころびを縫う者もいなくては不自由なので下女がわりに使っておるようなものです。

あなたのような美しい人と知合えたからにはあんな古妻とはすぐにでも別れます。私も浮気者でどうしようもない夫に見切りをつけて、いい人はいないかとやって参りましたこれも稲荷大明神の御利益ですわ、と息投合して交合いふと月明かりでお互いの顔を見ると相手は自分の妻であり夫ではないか!なんなんだと掴み合いの大喧嘩になったそうな」そしてひょんなことから師実卿が皇后御前の前栽をみなが知らぬ間に植えかえて見せましょうと言う他愛もない賭けになり皇后様は「下野!そなたが守将になり前栽を守りなさい」と命じられ女房たちもその日から御前のまわりに落とし穴を掘るやら障害物を作るやら交代で十二単もたくし上げ夜も寝ずの番で屋根まで登り見張りをするなど大変な騒ぎになってしまいましたわ。


・・・うれしさも 宴の声 高らかに 四条大路の 秋は夕暮れ・・・





ここに話しを整理するわん。
晩年の清少納言の回想から話しを起こして、下野守源政隆が枕草子の写しを直接、清少納言からもらい受けて、政隆の娘である下野がそれを読み宮仕えに憧れて四条宮へ女房として出仕したまでの話し。年代にして紀元1000年前後大雑把だけど、、

清少納言の父親の清原元輔が右大臣小野宮実資の派閥に属していておそらく定子皇后没後もまったく引退したわけでなく、この近辺で出仕してたんじゃないかしらん。

御堂関白と言われた藤原道長の長男頼通の時代には小野宮実資との関係が良好になったけども今度は道長の子同士で派閥ができてくる、正妻の倫子(宇多源氏)の子、頼通、教通対明子(醍醐源氏)の子、頼宗、能信、長家で特に注目すべきは能信(正二位権大納言)の養女茂子が後三条帝に入内し白河天皇という専制君主を生み摂関家を有名無実な存在にしてしまったこと。

もちろん、関白頼通系列の娘たちも入内してたんだけど皇子を出生できなかったことが決定的だったし、後三条帝の荘園整理令の徹底など諸政策も関白家の実力を後退させたのよね。

その落日の関白家を目前にした時代に頼通の娘である皇后寛子へ女房として出仕した四条宮下野の話しなんだけど。



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